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お墓の石や、祖父母の家の仏壇、しまってある黒い紋付の着物。ふと目にとまる、丸い小さなしるしがあります。家紋です。家紋は、名字と同じように、家に受け継がれてきたしるしです。このページでは、家紋がいつ、どのように生まれ、どう広がっていったのかをたどります。よく見る紋のいわれや、自分の家の紋の調べ方もお伝えします。
家紋は、家ごとに決めた、家のしるしです。国語辞典によると、図柄には、名字にちなんだもの、家の歴史の出来事を記念したもの、信じる神仏にちなんだものなど、いろいろな種類があります。
昔は、家紋のことを「家の紋」「定紋(じょうもん)」「紋じるし」「紋所(もんどころ)」などと呼びました。「紋章」という言葉は、近代になってからの呼び名です。百科事典によると、「家紋」という呼び名は、もともとは武士の家の紋に使われたものだそうです。
家で決まっている紋を「定紋」と言います。その代わりに使う別の紋は「替紋(かえもん)」や「裏紋(うらもん)」と呼ばれました。ひとつの家が、いくつもの紋を持つこともあったのです。
家紋の始まりは、平安時代の公家(くげ)にあるとされます。百科事典によると、11世紀の前半ごろ、公家が、衣服や身のまわりの道具、牛車(ぎっしゃ)に、好みの文様を使ったのが始まりです。父や祖父が好んだ文様を、子や孫も使い続けるうちに、それがその家の文様として決まっていきました。
別の百科事典は、家紋は、もとは公家が自分の牛車を見分けるために考えたもの、と見ています。儀式の日には、たくさんの牛車が並びます。どの家の車か、ひと目でわかるしるしが役に立ったのでしょう。
公家の紋は、着物の織りの文様から来たものが多く、細かく、優雅な形をしていました。公家の暮らしでは、敵と味方を見分ける必要があまりなく、飾りの意味が強かったとされます。
辞典には、三つの巴(ともえ)を組み合わせた「巴」の紋について、公家では西園寺家(さいおんじけ)に始まると伝える、とあります。
武士の家紋は、公家とは別の道すじで生まれました。百科事典によると、鎌倉時代のはじめ、戦の場に立てた旗のしるしに起こりがあるとされます。戦の場では、守り神をまねくために旗を立て、そのしるしを図柄にしました。陣に張る幕の染め分けが、横に線を引いた紋になったものもあります。
源氏の白い旗にならって、多くの家紋は、白地に黒の一色で表されるようになった、とも言われます。家紋は鎌倉時代の中ごろには武士の間に広がり、蒙古襲来のころには、全国に定着していたとされます。
そのようすは、絵にも残っています。家紋の研究の古典、沼田頼輔の『日本紋章学』(1926年)は、鎌倉時代の「蒙古襲来絵巻」に描かれた九州の武士たちの旗を、ひとつずつ読み取っています。菊池次郎の旗は二枚並べた鷹の羽、大矢野種保(おおやのたねやす)は桐、島津久親(しまづひさちか)は鶴の丸に十文字。遠い九州の武士たちも、旗に家紋をかかげて戦っていたのです。
室町時代になると、諸家の紋を集めた本も作られました。『見聞諸家紋(けんもんしょかもん)』は、日本でいちばん古い家紋の本とされ、240あまりの家の紋、およそ260を集めています。
戦国時代には、戦い方が、一騎打ちから大勢での戦いに変わりました。遠くからでも見分けやすいよう、丸や四角、ばつ印のような、かんたんな形の紋が好まれたとされます。武士の紋に、すっきりとした形のものが多いのは、このためです。
江戸時代になって戦がなくなると、旗じるしは使われなくなりました。かわりに家紋は、大名行列の道具などに描かれ、どの家の行列かを示すしるしになりました。明暦の大火(1657年)の翌年には、大名の紋を集めた『大名御紋盡(だいみょうごもんづくし)』という本も出ています。
この時代に、紋付の着物の紋は、形がきれいに整えられ、丸で囲まれることが多くなったとされます。今見る家紋に、丸で囲んだものが多いのは、このころからの流れです。
家紋は、武士だけのものではなくなりました。辞典によると、江戸時代の中ごろには、お金をたくわえた町人や、歌舞伎の役者にも、紋付が広がりました。名字をおおやけに名乗れなかった町の人々も、紋は使うことができたのです。役者の紋は人気を集め、人々に紋を広めるきっかけにもなったとされます。
元禄のころには、おしゃれのための紋も流行しました。伊達紋(だてもん)や比翼紋(ひよくもん)などです。こうして家紋は飾りの意味を強め、名字と家紋のつながりは、だんだん薄れていったと、百科事典は伝えています。
紋付(もんつき)は、家紋を入れた、改まった場のための着物です。家のしるしを、なぜ着物に入れるようになったのでしょう。
百科事典によると、紋は古くから、公家は直垂(ひたたれ)に、武家は大紋(だいもん)や素襖(すおう)、裃(かみしも)などに付けて、家柄や格式を表しました。改まった場に、家のしるしを身につけて出る。これが、紋付のはじまりです。
江戸時代の中ごろになると、お金をたくわえた町人や、歌舞伎の役者にも、紋付が広がりました。そして明治維新のあと、裃が廃止されると、紋付が、広く人々の礼服として定まっていきます。辞典は、染めの五つ紋の羽織袴が礼服のきまりとなったのは、明治時代からだと伝えています。
紋の数によって、装いの改まり方も変わります。
家のしるしを背に負い、胸に付けて、人前に立つ。紋付を着ることは、ひとりの人としてだけでなく、家の一員として、その場に立つことでもありました。結婚式やお葬式で今も紋付が着られるのは、家と家、人と人とが、改まって向き合う場だからなのでしょう。
百科事典によると、江戸時代、家紋は名字とちがって、おおむね自由に使うことができました。使えなかったのは、菊、桐、葵の紋と、その土地の領主の家紋です。
| 紋 | 辞典に書かれていること |
|---|---|
| 葵 | 二葉葵(ふたばあおい)の葉や花をかたどった紋です。京都の賀茂神社の神事に使われた草で、その神紋から来ています。徳川家の紋として知られ、辞典には、1586年(天正14年)、徳川家康が、ほかの家が葵の紋を使うことを禁じた、とあります。 |
| 菊 | 平安時代から、朝廷で衣服や乗り物の文様に好まれ、今は皇室の紋になっています。辞典によると、皇室のほかで菊の紋を使うことをはっきり禁じたのは、1871年(明治4年)です。天皇家は十六の花びらの八重菊、皇族は十四の花びらの裏菊と決められました。 |
| 桐 | 桐は、鳳凰(ほうおう)がすむ木とされ、桐に鳳凰の図柄は、天皇の衣服の文様にも使われました。 |
江戸時代の決まりで、ふつうの家が使えなかった紋は、限られていました。それ以外の紋は、紋付を着られる人なら、だれでも自由に使っていたとされます。
日本の家紋は、約2800種あるとも言われます。ただ、百科事典によると、ふだん使われるのは、そのうちの限られた紋です。中でも多いのは植物の紋で、桐がいちばん多く、藤、菊、蔦(つた)、笹、片喰(かたばみ)、梅、桔梗がこれに続くとされます。
「五大紋」「十大紋」という言い方を見かけることがあります。けれど、百科事典には、そうしたまとめ方はありません。決まった分け方ではないのです。
| 紋 | どんな形で、どんないわれがあるか |
|---|---|
| 桐 | 桐の花と葉を図案にした紋です。花の数によって、五三の桐(ごさんのきり)、五七の桐(ごしちのきり)などがあります。桐は鳳凰がすむ木とされてきました。 |
| 藤 | 藤の花房や葉を図案にした紋です。花房が下に垂れた「下り藤(さがりふじ)」、上を向いた「上り藤(のぼりふじ)」など、たくさんの形があります。 |
| 片喰 | 道ばたにも生える草、かたばみの葉を図案にした紋です。武士の家では、勇ましさを表して剣をそえた「剣片喰(けんかたばみ)」もあります。 |
| 梅鉢 | 一重の梅の花を、正面から見た形にした紋です。菅原道真や、加賀の前田家の紋として知られています。「梅鉢」の名は、太鼓のばちを梅の花の形に並べたものから来た、という説が江戸時代からありました。けれど『日本紋章学』は、北野天満宮の縁起の絵巻に、すでに梅鉢と同じ形が描かれていることから、はじめから梅の花をかたどった紋で、形がばちに似ていたので、あとからこの名で呼ばれたのだろう、と見ています。 |
| 桔梗 | 桔梗の花をかたどった紋です。花を白く抜いた形や、三つに割った形など、いろいろあります。『太平記』には、美濃の土岐(とき)氏の一族が「桔梗一揆」と呼ばれ、水色の旗をかかげて並んだ場面があります。その一族から出た明智光秀の紋は、水色に染めた「水色桔梗」でした。白と黒で表すことの多い家紋の中で、めずらしく色のついた紋です。 |
| 巴 | うずを巻くような形の紋です。弓を射るときに手首につける道具「鞆(とも)」に形が似ていることから、この名がついたとされます。もとは、うず巻きの文様から生まれたと考えられています。三つ組み合わせた「三つ巴」がよく知られています。 |
| 木瓜 | 「もっこう」と読みます。御簾(みす)の上に張る「帽額(もこう)」という布に多く使われた文様から、この名がついたとされます。鳥の巣が卵を包んでいるように見える形、瓜を輪切りにした形、とも説明されます。 |
| 鷹の羽 | 鷹の羽と、そのまだらもようをかたどった紋です。二枚を交差させた「違い鷹の羽」、並べた「並び鷹の羽」などがあります。 |
| 橘 | はじめは、古代の名族、橘氏の一族の紋として使われました。橘氏がおとろえたあとは、武士の家でも使われるようになったとされます。 |
| 柏 | 柏の葉をかたどった紋で、三つ柏、抱き柏など、たくさんの形があります。大昔、柏などの木の葉は、食べ物を盛る器や、まつりの道具として使われていました。『日本紋章学』によると、葉が広くて厚い柏は器にいちばん向いていて、「かしわ」という名も、食べ物を盛る葉という意味から来たとされます。中国の歴史書『隋書』にも、倭の国の人は皿のかわりに柏の葉を使い、手で食べる、と書かれています。器が焼きものに変わったあとも、柏の葉は神さまへのお供えに使われ続けました。神社に仕えた家に柏の紋が多いのは、このためだとされます。 |
| 沢瀉 | 「おもだか」と読みます。水辺に生えるおもだかの葉と花を組み合わせた紋です。江戸時代の浄瑠璃にも、大名の家の紋として、梅鉢や橘とならんで名前が出てきます。 |
武士の家では、勇ましさを表すために、剣をそえた紋も作られたと、百科事典は伝えています。剣片喰は、その例です。
江戸時代の人々は、紋を描くための見本帳「紋帳(もんちょう)」で、紋の形を確かめました。天保3年(1832年)に京都で出た紋帳『紋帳色葉分(もんちょういろはわけ)』から、ここで紹介した紋と、ほかにもよく見る紋を見てみましょう。紋の名前は、紋帳に書かれた名前をもとにしています。
花や葉、木の実をかたどった紋です。いちばん数の多い仲間です。



















鳥や虫、空想の鳥をかたどった紋です。





線や丸、ひし形など、すっきりした形の紋です。









星や波、身のまわりの道具をかたどった紋です。









紋の絵:国立国会図書館デジタルコレクション『紋帳色葉分』(天保3年・1832年)より
家紋の中には、名字の字や、言葉の縁起から生まれたものがあります。『日本紋章学』は、名字と結びついた紋を、三つの形に分けています。
| 形 | 例 |
|---|---|
| 名字の字を、そのまま紋にする | 大野・大久保の家が「大」の字、木内・木村の家が「木」の字、浜田・堀田の家が「田」の字を紋にしました。字の形がすっきりして、左右のつり合いがよい字が選ばれたとされます。平野氏のように、名字の二字を使った家もあります。 |
| 名字にちなんだ絵を、紋にする | 酒井・井伊・井上のように「井」の字がつく家は、井戸のふちを組んだ形の「井桁(いげた)」。内藤・加藤・後藤のように「藤」の字がつく家は、藤の花を丸くした「藤の丸」を使いました。 |
| 名字の字と絵を、組み合わせる | 加藤氏は藤の丸に「加」の字、安藤氏は藤の丸に「安」の字を入れました。 |
『日本紋章学』は、こうした名字と結びついた紋は、家のしるしという家紋のはじめの役目に合っていたので、比べると多く使われた、と書いています。
言葉の響きに、願いをこめた紋もあります。
一族が大きくなり、家が分かれていくと、紋も分かれていきました。百科事典によると、室町時代の応仁・文明の乱のころには、一族がいくつもの家に分かれ、紋は家ごとのものになって、形を変えながら数を増やしていったとされます。
江戸時代には、本家と分家を見分けるため、紋の一部を変えて、家の格のちがいを表した、と辞典にあります。同じ葵の紋でも、徳川の本家は三つ葉葵、紀州徳川家は六つ葵というように、形で呼び分けられていました。
ひとつの家が、いくつもの紋を持つこともありました。表に使う紋、裏の紋、本来の紋、替紋などを合わせて、十あまりの紋を使った家もあったとされます。紋が少し違うからといって、別の一族とは限りません。反対に、同じ紋だからといって、同じ一族とも限りません。
明治になると、だれもが名字を名乗るようになりました。百科事典によると、このころから、紋付の羽織袴が礼装として広く使われるようになり、家紋は、名字にともなうものとして、どの家にも広がっていきました。
黒の五つ紋の羽織と着物に袴、というのが、男の人の正装です。紋付が礼服として定まっていった流れは、「着物に紋を入れるわけ」でお伝えしました。
第二次世界大戦のあとは、和服を着る機会がへり、紋を使うことも少なくなりました。今、家紋をいちばん目にするのは、お墓の石かもしれません。一方で、昔の紋の形は、美しい図柄として、あらためて関心を集めています。
明治の名字のことは、「名字の由来」の「明治に名字を選んだ家」や、「日本の名字の話」でもご紹介しています。
百科事典は、戦後、紋の使い方はすたれ、わずかに墓石などに形をとどめるだけになった、と書いています。けれど、まわりを見わたすと、家紋から生まれたしるしは、思いがけないところに今も生きています。
| 昔(家紋の使われ方) | 今(名残) |
|---|---|
| 菊は、平安時代から朝廷で好まれた文様で、皇室の紋になりました。 | 日本の旅券(パスポート)の表紙の菊。外務省によると、日本には法律で決まった国の紋章がないため、菊の花を図案にしたものを、1926年から表紙に使っています。皇室の紋の八重菊とちがい、一重の菊です。 |
| 桐は、天皇の衣服の文様にも使われました。 | 「五七の桐」は、日本の政府の紋章として使われています。旅券の中のページにも、1938年から五七の桐の模様が入っています。五百円玉の表の図柄も、桐です。 |
| 大名の家の紋は、その藩を表すしるしでした。 | 市の紋章。金沢市の市章は、前田家の梅鉢の紋からとった梅の花の形に「金」の字を入れたもので、明治24年(1891年)に決まりました。鹿児島市の紋章は、島津家の「丸に十の字」と「市」の字を図案にしたものです。 |
| 家の紋は、その家を示すしるしでした。 | 会社のしるし。三菱のマークは、はっきりした由来はわからないものの、土佐藩主の山内家の紋と、岩崎家の紋に由来すると考えられている、と三菱の公式の説明にあります。 |
| 家紋を入れた紋付は、改まった場の装いでした。 | 結婚式やお葬式の装い。今の結婚式では、五つ紋の黒留袖がいちばん改まった装いとされ、和服の喪服も、黒の五つ紋付です。 |
| 家紋は、家の道具や持ち物にも入れられました。 | お墓の石。紋を使うことが減った今も、墓石には紋が残っています。 |
| 江戸時代、歌舞伎の役者の紋は人気を集めました。 | 歌舞伎の役者は、今も家を表す「定紋」を持っています。市川團十郎家の三升(みます)は、その一つです。襲名のお披露目では、祝いの幕や大道具に定紋があしらわれます。 |
| 葵の紋は、京都の賀茂神社の神紋から来ています。 | 神社の紋。出雲大社は、亀甲(きっこう)の紋で知られ、ゆかりのある神社や神職の家にも、この紋を家紋とするところが多いとされます。 |
| 武家は、刀の外装の金具にも、家紋を入れました。 | 刀の柄(つか)を飾る目貫(めぬき)には、獅子や竜とならんで、家紋をかたどったものが多く見られます。刀身を支える金具には、家紋を彫った「紋鎺(もんはばき)」もあります。葵の紋を散らした鞘など、紋の入った刀の外装は、今は博物館の資料として見ることができます。 |
昔の家紋は、家を見分け、家柄を示すしるしでした。使える紋に決まりがあり、だれが何を付けるかに意味がありました。今は、その形が、国や町、会社、舞台のしるしとして受け継がれています。家のしるしだったものが、人々の集まりのしるしへと、役目を広げてきたのです。
ドラマ『VIVANT』(2023年)には、主人公の実家である乃木家の家紋が出てきます。本物の家紋には、六角形をもとにした「亀甲(きっこう)」の紋があります。亀の甲らの模様をかたどったもので、紋として使ったものでは、出雲大社がよく知られています。
漫画『ONE PIECE』のワノ国には、光月家(こうづきけ)という家が登場します。その家のしるしは、「光月家のマーク」として、公式のグッズにもなっています。
物語の中の紋は、作品のために作られたものです。本物の家紋の世界には、形の似た紋がたくさんあります。江戸時代の紋帳の絵は、「よく見る紋とそのいわれ」で見ることができます。
自分の家の紋がわからない。そんなときは、身近なところから探してみてください。
一つめは、家の中や、お墓です。紋は、次のようなところに残っていることがあります。
二つめは、人に聞くことです。本家や、親戚のお年寄りに、たずねてみてください。お墓の紋と、着物の紋が違うこともあります。定紋のほかに、替紋を使う家もあったからです。お墓のあるお寺(菩提寺)には、先祖の名前などを書きとめた「過去帳」が残っていることもあります。お寺の方に、紋のことも聞いてみるとよいでしょう。わかったことは、家族で書きとめておくと安心です。
三つめは、図書館です。紋の形がわかったら、家紋の辞典で、その紋の名前や、どんな家で使われてきたかを調べられます。国立国会図書館の調べものの案内「家紋・紋章を調べる(日本)」では、紋の図柄から引く本、名字から引く本などが紹介されています。たとえば、次のような本です。
どの本がよいかわからないときは、近くの図書館の調べもの相談の窓口にたずねてみてください。合う本を一緒に探してもらえます。地域の博物館や郷土資料館、自治体の歴史の本(市史や町史)に、その土地の古い家や紋のことが載っていることもあります。
家の紋がわからないときは、先祖をたどってみるのも一つの道です。お墓や古い道具、本家の記録から、紋が見つかることがあります。くわしい手順は「先祖のたどり方」でお伝えしています。
家のしるしを持つ文化は、日本だけのものではありません。ヨーロッパにも、紋章(もんしょう)があります。百科事典によると、ヨーロッパの紋章は、12世紀ごろに生まれました。よろいとかぶとに身を包んだ騎士は、顔が見えません。だれなのかを見分けるしるしとして、紋章が使われるようになったとされます。
紋章は、王や諸侯から広がりました。14〜15世紀からは、聖職者や都市、商工業のギルド(職人や商人の組合)、大学なども、自分たちの紋章を定めるようになったとされます。
| ヨーロッパの紋章 | 日本の家紋 |
|---|---|
| 色に決まりがあります。金と銀の「金属」と、青・赤・黒・緑などの「色彩」を使い、金属どうし、色彩どうしを重ねてはいけない、といった決まりがありました。 | 白地に黒の一色で表されるものが多いと言われます。色よりも、形で見分けます。 |
| もとは、ひとりの人のものです。同じ紋章が二つあってはならないとされます。家族は同じ形を使い、長男や次男などは、小さなしるしを加えて区別することがありました。 | 家のものです。同じ紋を、つながりのない多くの家が使っています。 |
| 国が登録して管理した例もあります。15世紀には、紋章を調べ、管理するための機関も設けられました。 | 江戸時代は、菊・桐・葵とその土地の領主の紋のほかは、おおむね自由に使えました。自分で紋を作ることも、気軽に行われたとされます。 |
百科事典には、家の紋章を使うのは、ヨーロッパの貴族の社会のほかでは、日本だけだ、とあります。お隣の朝鮮では、一族のつながりを、名字と「本貫(ほんかん)」で表してきました。本貫は、一族が生まれた土地の名前です。同じ金(キム)という名字でも、本貫がちがえば、別の一族とされます。
形で見分ける日本の家紋と、色と決まりで見分けるヨーロッパの紋章。どちらも、人や家を見分けるしるしとして、長い時をかけて育ってきました。
わかりません。ここまでお伝えしてきたことから、理由は三つあります。
もうひとつ、大切なことがあります。名字や家紋、出身地などから、ほかの人の家の昔を探ろうとすることは、結婚や仕事のときの、いわれのない差別につながってきました。国も、本籍地や家族のことで人を判断しないよう、よびかけています。家紋は、自分の家の物語を知るための、楽しい手がかりです。
姓名月の姓名判断では、家紋を数に入れることはしません。名字と名前を、今ふだん書いている字のまま、見たとおりに数えます。名字の画数を合わせた数は「天格」と呼ばれ、家族みんなで分け合う数です。
それでも、家紋は、名字と同じように、家の物語を運んできたしるしです。名字がどこから来たのかは「名字の由来」に、名字の数や長い名字のことは「日本の名字の話」にまとめています。あわせて読んでみてください。
家紋は、いつごろから使われているのですか?
辞典によると、平安時代の中ごろ、公家が牛車や衣服、身のまわりの道具に好みの文様を使ったのが始まりとされます。武士の家紋は、鎌倉時代のはじめの旗じるしから生まれ、江戸時代には町の人々にも広がりました。
自分の家の家紋は、どうすれば調べられますか?
まず、お墓の石、仏壇や位牌、古い紋付の着物、紋の入った道具を見てみます。わからないときは、本家や親戚にたずねます。紋の形がわかったら、図書館で家紋の辞典を引くと、紋の名前がわかります。図書館の調べもの相談の窓口にたずねると、合う本を一緒に探してもらえます。
紋付の紋は、いくつ付けるのが正式ですか?
五つ紋が正式です。背に一つ、両袖の後ろと両胸に一つずつ、合わせて五つの紋を付けます。三つ紋はそれに次ぎ、背の紋だけの一つ紋は略した装いとされます。
家紋から、先祖の身分や家柄はわかりますか?
わかりません。江戸時代には、武士だけでなく町の人々も家紋を使いました。同じ紋を、つながりのない多くの家が使っていますし、名家の紋をまねて使うこともありました。家紋は、自分の家の物語をたどる手がかりのひとつとして、大切にしてください。
家紋は、姓名判断の画数に関係しますか?
関係しません。姓名月では、家紋を数に入れることはしません。名字と名前を、今ふだん書いている字のまま、見たとおりに数えます。
ドラマや漫画に出てくる家紋は、本物ですか?
作品のために作られた紋が多いようです。ただ、本物の家紋には、形の似た紋がたくさんあります。江戸時代の紋帳に描かれた本物の紋の絵は、このページの「よく見る紋とそのいわれ」で見ることができます。
牛車の文様から、戦の旗じるし、町の人々の紋付へ。家紋は、千年ほどの時をかけて、どの家にも届いたしるしです。お墓の石に刻まれた小さな丸い紋は、その家で暮らした人たちを、今につなぐしるしでもあります。
名字と家紋は、家から受け継ぐもの。そして名前は、その家に生まれた人へ、新しく贈られるものです。名前は、人生で最初のおくりもの。今度お墓参りに行ったら、石に刻まれた紋を、少しゆっくり見てみてください。
三右衛門の知見と、裏づけの資料